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東京高等裁判所 昭和37年(お)10号 決定 1965年3月11日

再審請求人 平沢貞通

右弁護人 磯部常治

同 島田正雄

同 青木正芳

同 田口康雅

同 竹沢哲夫

同 柳瀬存

同 鈴木勇

同 霧生昇

右平沢貞通に対する強盗殺人、同未遂、殺人強盗予備、私文書偽造、同行使、詐欺、詐欺未遂被告事件について、昭和二十六年九月二十九日東京高等裁判所が言渡した判決に対し、同人から再審の請求があったから、当裁判所は検事および請求人の意見を聴いた上、次のとおり決定する。

主文

本件再審請求を棄却する。

理由

本件再審請求の理由は

一、平沢貞通の昭和三十七年七月二十一日付、同月三十日付、および同年十月二十九日付各再審請求申立書

二、磯部常治、柳瀬存の昭和三十七年十二月十日付再審申立の補充書

三、磯部常治、柳瀬存、鈴木勇の昭和三十八年二月十三日付再審申立の補充書

四、平沢貞通の昭和三十八年五月十五日付再審申立の補充書

五、磯部常治、柳瀬存、鈴木勇、霧生昇、竹沢哲夫、島田正雄、田口康雅、青木正芳の再審申立の補充書の訂正且補充書

六、平沢貞通の昭和三十八年六月四日付再審請求の事実及理由の追加申立書

七、磯部常治、柳瀬存、鈴木勇、霧生昇、竹沢哲夫、島田正雄、田口康雅、青木正芳の昭和三十八年九月六日付再審補充申立書

八、平沢貞通の昭和三十八年十月十四日付附帯追加補充上申書

九、磯部常治、柳瀬存の昭和三十八年十月二十一日付再審請求理由の補充並証拠補充書

十、磯部常治、柳瀬存、鈴木勇、霧生昇、竹沢哲夫、島田正雄、田口康雅、青木正芳の昭和三十八年十月二十一日付再審請求補充書

各記載のとおりであって、これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

第一、検事聴取書の任意性に関するもの、

一、所論はまづ、被告人に対する昭和二十三年十月八日の第六〇回、同月九日の第六一回および第六二回の出射検事作成の各聴取書中、被告人の自白は、日本国憲法の施行に伴う刑事訴訟法の応急措置に関する法律第二条第一〇条に該当し、任意性を欠く無効のもので、そのことは再審の理由となると主張する。

すなわち、右各聴取書は、出射検事が小菅拘置所に出張して被告人を取り調べ作成したものであるが、検事がその所属庁における所定の取調室で取調べをなさず、拘置所に出張取調べを行うということは、被告人が疲労困癒のため検察庁に出頭することが不可能な健康状態にあったことを証明するものである。特にその小菅拘置所内における取調べの場所についても、出射検事の説明と立会の佐々木事務官の説明とが符合していないことと、右被告人の健康状態を考え併せると、どこかで何らかの形の強制、拷問、脅迫が行われたと推測する外なく、右被告人の自白は任意性を欠くものである。そして、旧刑事訴訟法第四八五条第一項第一号の、証拠書類が偽造又は変造であるというのは、単にその作成名義を偽る場合だけに限定すべきではなく、その内容が真実に反する虚偽の自白を含む場合または、採証の法則殊に一定の方式ないし様式に適合しない証拠をも含むものと解すべきである。斯様な不適法、不適式な証拠は、憲法第三一条、新刑事訴訟法第二〇七条の諸規定の趣旨により当然裁判所が職権をもって排除の決定を為すべきものであり、このような排除相当の証拠については、偽造、変造の証拠の場合と異り確定判決を必要としないことは、ドイツ刑事訴訟法等の立法例によって明瞭であると主張し、

二、また、原判示第一ないし第三の事実認定の証拠として採用されている被告人の捜査官に対する供述は、捜査官が憲法第三八条等に違反し職権を濫用して自白を強要したことによるもので、証拠能力を有しないことが明らかにされ、右の如く確定判決の基礎となっている証拠が、証拠能力を有しないことが明白となった場合には再審の理由となると主張する。

すなわち、本件殺人の方法についての被告人の供述である、梅干大二個分位の青酸加里を八〇c・cの水溶液としたものを殺害の用に供した旨の被告人の自白は次のような経緯で誘導、強要されたものである。それは、雑誌日本昭和三十八年四月号所載の元警視庁警視成智英雄の「平沢貞通は真犯人ではない」という論文に徴すれば、捜査当局は本件犯行が万事整合し、計画的になされていることに気付き、それは必ず毒物について相当の智識を有するベテランの犯行であると睨み、大戦中の在満部隊の者数十名の協力を得て調査した結果、帝銀事件の犯罪適格者は青酸加里の致死量の極量を知悉する実験者か、そのデータを見た者に限るという結論を得た。しかし平沢にはかような知識があったと認むるに足る証拠がないので、捜査当局は、犯人がその犯行の用に供した第一薬の壜の大きさが八〇c・cであることと、被害者一人当りの嚥下量が四または五c・cであるという事実を基礎として、前記研究の結果明らかになった、十六名の者に原判示の如き被害状況を実現するに必要な青酸加里の必要量十五グラムを算出した上、これを素人判りのする梅干二個分の分量に当て嵌め、平沢にヒントを与えて前記自白を強要、誘導したものであると主張する。

三、また、昭和二十三年九月二十一日より同年十月九日までの、被告人の検察官に対する供述は、検察官の暴行、威迫、誘導による尋問、二日ないし三日にわたり深夜より早朝におよぶ不眠不休の状態において拷問的取調べの結果なされ、自暴自棄支離滅裂の状態におけるもので、任意性を欠き憲法第二五条、第三八条第一項第二項に反する無効なものであるといい、また、被告人の高木検事に対する第三十四回以後の各聴取書は同検事が職権を濫用して作成したものであるから、旧刑事訴訟法第四八五条、第四八七条、第四八八条、第四八九条により再審の理由があると主張する。

四、また、被告人はコルサコフ氏病歴を有するためその全自白には病的虚構があり、また長朝に亘る勾留により拘禁性精神異状に陥りその供述は妄想的空想に基く虚構である。そして捜査官は被告人のこのような精神的欠陥を利用して幾多の暗示、誘導を与え、時に強制、拷問を加え、遂に被告人をして自らを犯人なりと妄想せしめ、暗中模索的に検事の暗示誘導を自ら待ち望む如き架空の供述をなさしめたもので、被告人の検事に対する供述は全く任意性を欠き、真実性を有しないものである。証拠の新規性、すなわち新たな証拠とは、物理的意味の新規性を要するものに限らず、既に記録中に存在する古い証拠と雖も、これに新しい意味と価値とが発見された場合には再審の理由としての新たな証拠が発見されたものとすべきである。確定裁判が有罪認定の証拠とした以上被告人の公判廷外における供述が虚構にして真実性のないことが明かにされた以上、これを再審の理由となし得るものであると主張する。

よって、叙上の諸論旨について審案するのに、被告人は、昭和二十三年九月二十日まで、検察官の取調べに対し、本件強盗殺人、同未遂の犯行を否認し、同月二十一日帝銀椎名町支店における強盗殺人の犯行を自認する如き供述をなし、その後安田銀行荏原支店における強盗殺人未遂、三菱銀行中井支店における強盗殺人予備の各犯行についても、逐次全面的にこれを自供するに至ったものである。右被告人の取調べに当った高木、出射両検察官作成の聴取書を仔細に検討するのに、両検察官が被告人の取調べに当ってその供述を誘導しまたはこれを強要した跡は全くこれを認めることができない。まづ、高木検察官作成の聴取書を見るのに、検察官の発問と被告人の応答が、殆んどその言葉通りに記載され、更にこれに関連する被告人の動作、表情から、取調室内の出来事に至るまで、取調べの状況を彷彿させるような如実の表現がなされているのである。そしてそこに最も強く印象づけられることは、同検察官がいかに、被告人をして真実を述べさせようかと苦心していることである。同検察官がその捜査上明かな事実を基にして被告人の意に反してその供述を誘導したり、強要した跡は片鱗も認められない。ただ被告人が余りにも見えすいた嘘を言うために、或はまた、自暴自棄的な捨鉢の態度で供述するために、同検察官が被告人に対して、飽くまで冷静に、清明な心境を取り戻して真実を供述するように促しているところは随所にこれを見ることができる。記録上明らかな如く、被告人の虚言癖は全く病的なものであって、而もそれは尋常なものではない。被告人の社会歴に現われているように、被告人は極めて冷酷にして利己的であって、自分の利益のために他人を欺くことを何とも思わない病的性格を持っている。このような性格の被告人に真実を述べさせようとすることは極めて至難なことであって、高木検察官はこのためにどれだけ苦心し努力したか、想像に余りあるものがある。その作成に係る聴取書に「決して本当の事と思って聞いていないよ」とか「もっと本当のことを告白する気持にならないか」というような発問はその間の消息を物語るものであって、所論の如く、被告人の供述を誘導したり強要したものではない。被告人がはじめ帝銀椎名町支店の犯行を自認する供述をしたときも、同検察官は被告人に対し、「被告人が心から自分の犯行を告白するのだということを、検察官が信じられる方法はないか、」といって、被告人がただ言葉の上だけで自供しても、検察官としては、被告人が心から懺悔して真実の自白をしたとは信じられないが、どうすればよいか、と被告人自身に問い質しているのであって、検察官が被告人の自供を誘導したり、被告人の意に反する供述を強要するなどは、全く考えられないのである。弁護人は、被告人の「ハイ、今日ハモウ何デモ、ソウデ御座イマスト肯定スル心算デ出テ来マシタ、一日モ早ク埓ガ明ケテ御処刑ガ受ケタイノデス」という供述を、検察官がその侭放任するのは果して正しい官憲の行いであろうか。これを放任した以上、この供述以後は、検察官は被告人の供述さえあればそれでよいと考え、その同意もなく被告人の拇印を押させてきたことが明らかである、と主張するけれども、右被告人の供述に対しては、直ちに検察官が「ソレデハ本当ノ告白ニハナラナイカラ駄目ダ、自分ノ心カラ湧キ出ルコトヲ言ヒナサイ、モウ一度最初ノ動機カラ本当ノコトヲ話シナサイ」と言い、被告人の右のような捨鉢みいた供述をそのまま放任してはいない。口先だけの自白でなく、本当の事を供述するよう促しているのである。ただ同検察官のそのような苦心、努力にも拘らず、被告人は犯行を全面的に自供し、相当細部に亘ってその真実を供述しながら、なおその一部について、特に毒物の入手先等相当重要な点について、幾多の虚言を弄して、なお真実を語らないのである。被告人はその犯行を隠し切れず、良心の苛責に堪え切れないで、これを告白し懺悔しながら、なお何とかしてその罪を免れよう、隠せるものなら隠そうという、丸で相反する二つの心理が、からみ合い被告人を苦悩させている情況が手に取るように判るのである。これは正に被告人の先に述べた病的性格に基因するものである。このようにして被告人の聴取書中に不条理、辻褄の合わないところがあるのも、寧ろ、被告人の聴取書なりに自然であり、その成立についての真実性を裏書きするものである。被告人が安田銀行荏原支店に下見分に赴いたときの供述として、「土曜日ということが気がつかないで、午前中に行き、銀行まで行って気がついて、今日は駄目だ、日を変えてくることにしようと思った、」という、供述が辻褄の合わないことは所論の指摘するとおりであるが、そのようなことは、被告人の供述として別に異とするに足りないのであって、その任意性および真実性を否定する論拠にはならないのである。

被告人は、検察官に対し犯行を自供した部分を否定するのに、いかにも、検察官の取調べに迎合して虚偽の自白をしたかのように陳弁するのである。それも、検察官から、「こうだろう、ああだろう」と誘導的発問を受けて、「そうだ、そうだ」と迎合的に、これを肯定する自供をした、というのではなく、検察官の頭の中が判ったから、検察官が喜ぶようなことを述べた、といい、それは検察官から催眠術にかけられたと陳弁するのである。また、検察官に褒められたので、自分から犯人になり切って懺悔録を書いたと弁解するものである。被告人の検察官に対する供述、その聴取書に添付されている犯行現場の略図その他仔細な点、それは実際に犯行を自らの手で実行し、自分の耳目で直接体験した者でなければ述べられないこと、書くことができないことが、述べられ、かつ書かれているのである。そのように述べること書くことを強要されたと言えない以上、催眠術にかけられて、検察官の頭の中が判ったのでその喜ぶようなことを述べたと言うより外方法がない訳である。弁護人らはこのような点をすべて、妄想だとか想像的供述だとか強弁するのであるが、首肯し得ない。

また、出射検察官の聴取書は、それまで高木検察官が取り調べた結果に基いて、これを整理し、かつ補正する意味で作成されているので、高木検察官の聴取書に比較すると、一問一答式のところが少く、全体が或る程度纒った形になっている。その内容も多少補正されているが、犯行の核心的な事実関係については大同小異である。その調書の形式だけを捉えて、纒まり過ぎているとか発問が誘導的であると非難することはできない。その供述を強要して作成されたものでないことは、前記高木検察官の聴取書を通じてこれを仔細に検討すれば容易に首肯される。同検察官が拘置所に出張して取り調べ、その取調室が判然しないから、その間に強制、拷問が行われたと推測する外ないというような所論は全く根拠のない臆測であって採るを得ない。また、捜査当局が在満部隊より得た智識を基にして、被告人に青酸加里梅干二個の供述に、ヒントを与えてその自白を強要したという所論も架空の臆測の域を出ないもので採用の限りでない。

被告人の自白がその意に反して強要されたものである場合には、これを犯罪認定の証拠となし得ないことは言うを俟たない。被告人は、第一審公判廷以来、検察官は連日連夜、苦役的取調べをなし、拷問の極みを尽くし、大喝、悪罵を浴びせて、催眠的効果を発生させて、被告人の自白を強要したと主張し、検察官の聴取書がすべて憲法に違反し、証拠となし得ないものであると強調してきた。したがって、第一審、第二審より上告審に至るまで、果して右各聴取書が憲法、刑事訴訟法の施行に伴う応急措置法等の法条に照して無効なものでないかどうかについて、慎重な審理、検討を重ねた結果、それらはすべて適法に作成された、適式な取調べを経た有効な証拠であって、些も右各法条に違反する疑いの存在しないものであるという確信に基いて被告人を有罪とし、その裁判は確定しているのである。所論はすべて被告人およびその弁護人らが第一審以来主張してきたと同一の主張を、重ねて再審申立の形で繰り返えすに過ぎないものであって、到底旧刑事訴訟法第四八五条の再審の理由にならないのみならず、前記詳述したとおり被告人の検察官聴取書の任意性および真実性を否定する所論はすべて排斥しなければならない。

第二、アリバイに関するもの、

原判示第一の一の安田銀行荏原支店における犯行が行われた昭和二十二年十月十四日のアリバイについて、所論は、被告人は長男の結婚式を同月十六日に控え、十月十四日は終日右結婚祝に用いる色紙の揮毫に費やし、当日は来客を附近の停留所まで見送りに出た程度で、その他には外出していない。また、昭和二十三年一月十八日は、被告人が原判示第一の二の三菱銀行中井支店における犯行に使用した名刺を受け取った日とされているが、右一月十八日には、被告人は午前十時頃より山口洋裁研究所の日本間において山口兄弟妹三人と夕方頃まで麻雀をやり、続いて同家にて夕食をとったことが、証第二〇一号の一の書翰、山口伊豆夫らの証言により明瞭である。更に、帝銀椎名町支店における犯行が行われた昭和二十三年一月二十六日には、被告人は午後一時半頃山口の勤務する船舶運営会に赴き、二時十五分頃右会社を出て根岸にある山口伊豆夫の自宅に行き、三時十分頃同家に着き、午後五時過ぎ(或は四時半近く)中野の自宅に帰り、娘の許婚者進駐軍勤務のエリー軍曹らと快談会食したことは、証第二〇一号の二の書翰、山口伊豆夫、平沢子、進駐軍エリー等の証言により明瞭であると主張する。

しかしながら、昭和二十二年十月十四日被告人が結婚祝用の色紙揮毫のため終日在宅していたという、そのアリバイに関する主張は、被告人が原審以来主張してきたことである。被告人は検察官に対しては十月十四日結婚祝いに来た伊藤カメを見送って東中野駅に赴むき、その足で目蒲線にて原判示第一の一の犯行現場に行ったと供述したのであるが、公判廷において右供述を覆えし、伊藤カメを見送って外出したのは同月十五日で、前日の十四日は渡辺貞代が同様来訪した日で、当日は終日なお色紙を揮毫していたと主張したのである。右十月十四日の被告人のアリバイについての問題は、被告人が捜査官に右犯行を自供した当時より検討され、渡辺貞代の来訪が十四日で、伊藤カメの来訪が翌十五日なのか、或は渡辺貞代の来訪が十三日で、伊藤カメの来訪が翌十四日なのかについて、捜査当局においても右渡辺貞代、伊藤カメ等を参考人として取り調べ、被告人の自供と矛盾するアリバイが成立するのではないかについて、慎重な考慮を払ったのである。したがって被告人が原審において右アリバイを主張するに至って裁判所としては更に一層この点を重要視して慎重な審理を尽したものである。そして、そのことは所論昭和二十三年一月十八日および一月二十六日のアリバイについても全く同様である。殊に一月二十六日の帝銀椎名町支店における犯行のアリバイについては、被告人は本件において逮捕される以前、捜査官より一月二十六日のアリバイを聞かれ、当時は大島土地会社の社長大島が三越の展覧会を見に来る約束になっていたので終日三越の自動車駐車場で同人を待っていた趣旨の説明をし、その頃その日記の一月二十六日の欄に加筆して「三越、大島まつ、五時帰宅、当番」と右アリバイを裏付けるような記載をしたのである。その後被告人は右アリバイの主張の虚偽であることを認め原判示第一の三の犯行を自供したのであるが、当日被告人が所論山口伊豆夫の勤務する東京都千代田区丸ノ内一丁目朝日生命ビル内船舶運営会に立寄った事実があり、殊に右山口伊豆夫が、被告人が右会社に来たのは午後三時頃であると、正に犯行時に符合するアリバイの証言をしたため、捜査当局においても同会社関係者の取調べを綿密にして、被告人の犯行自供に矛盾するアリバイの事実があるのではないかを検討したのである。また被告人は原審においては、ほぼ本請求において弁護人が説明すると同様のアリバイの主張をしたため裁判所として更に一層慎重な審理を尽したのである。当時被告人が山口伊豆夫方を訪れ麻雀をしたことや、同家より炭団を貰って来た事実のあることなど所論指摘の事実は必ずしも否定し得ないのであるが、原審は叙上捜査段階より極めて重要視されてきた被告人のアリバイの事実について厳密な審理検討を加えて原判示犯行を否定すべきアリバイの事実は遂に認めることができないものとして被告人を有罪に認定したものである。所論は被告人が原審以来主張してきたことと全く同様の主張を繰り返えし、これを再審の請求の形をもって主張するに過ぎない。今更新しい主張でもなく、被告人が無罪たることの明らかな新しい証拠は何もなく再審の理由とはならない。

第三、松井名刺に関するもの、

所論は、被告人が昭和二十二年四月下旬青函連絡船の中で、松井蔚より貰った同人の名刺を、原判示第一の一の安田銀行荏原支店における強盗殺人未遂の犯行に使用した旨の検察官に対する自白が虚偽であることを証明すべき新たな証拠が発見されたと主張する。被告人が右連絡船の中で、松井蔚より同人の名刺を貰い受け、その裏面に鉛筆書にて松井蔚の当時の住所「仙台市米ヶ袋上町十七番地」が記入されていた事実は、原審公判廷においても被告人の争わないところである。ただ、前記安田銀行荏原支店において犯人が使用した松井蔚の名刺には、その裏面に右鉛筆書の記載がないので、被告人の検察官に対する前記自白が果して真実なりや否やについては、捜査当初より慎重な検討が加えられてきたのである。被告人は検察官に対し、右犯行直前に、ゴム消にて、前記鉛筆の記載を消して、これを犯行に使用したと自供し、右鉛筆書の記載を消した跡が認められるという鑑定の結果も得られたのであるが、右鑑定の結果も被告人の右自白の真実性を裏付ける絶対的なものではない。それにこの松井名刺は本件犯行における決定的物的証拠であるため、第一審より上告審に至るまで、果して右松井名刺について被告人が検察官に自供しているところが真実なりや否やに関しては特に慎重な審理検討が加えられてきたものである。所論は、右鉛筆書の消し跡に、板橋町練馬安田銀行と読める文字の跡が存在したのを、捜査官が故意に抹消して証拠湮滅をはかり、偽証を敢えてしたかの如き主張をするのであるが、右偽証、証拠湮滅等の事実は全くこれを認めることができない。被告人の自供に添う仙台市米ヶ袋とは関係のない板橋町練馬安田銀行と読める文字が読み取れたのではないかという疑問もあったのでこの点については既に検察官より重ねて被告人に記憶の喚起を促して、被告人の自供に誤りがないかどうかを確かめているのである。所論は右松井名刺に関する被告人の自白が虚偽であることを証明すべき新たな証拠を発見したというけれども、その主張するところは、別に新しい事柄でもなく、捜査当初より問題とされ、第一審以来裁判所が慎重に審理検討してきた点を取り上げて、再審の理由とするに過ぎないもので採用することはできない。

また、所論は、松井名刺については昭和二十三年一月二十九日付および同年二月一日付の新聞記事が新たに発見された。右新聞記事によれば、犯人が安田銀行荏原支店において使用した松井名刺の裏に「品川区小山三の一一(又は一一三)鈴木八郎方」と書入れがあり、右書入れについて松井蔚自身自分が書いたものではない、と語った事実が認められる。右事実は、被告人が松井蔚より貰った名刺の裏に鉛筆書にて「仙台市米ヶ袋上町十七番地」と同人の住所が書入れてあったのを消して安田銀行荏原支店の犯行に使用したという被告人の検察官に対する自白を根本から覆えす新事実であり、これにより被告人の自白の虚偽なること、その無罪なることを証明し得ると主張するのである。なるほど、犯人が安田銀行荏原支店において使用した松井蔚の名刺の裏に所論の如き文字の記載があったという事実が証明されれば、それは被告人の自白に含まれていない事実であることは否定できない。しかしながら、右松井名刺の裏にあったという鈴木八郎方云々の記入がいつなされたのか、また誰がその記入を見たというのであるか全く判らないのである。若し犯人が犯行に名刺を使用したそのときにその裏に現実に「鈴木八郎方云々」の記載が残されていたというならば、それは本件犯行に関する事実と全く相違しており、事件の報道として不正確なものといわなければならない。また嘗てそのような記入があったのを犯人が消した跡から右文字が読みとれたという意味の記事ならば、勿論本件犯行の事実関係そのものとは矛盾しない。しかし犯人が使用した松井名刺は裁判所に押収されており、これから右の如き文字が読みとれたという鑑定はないのであって、この意味の報道としても不正確である。また、松井名刺が犯行に使用される以前に、右の如き記入があったのを誰かが見聞したという意味ならば、誰がいつどこでそれを見たか具体的なことが判らなければ、矢張り本件事件に関する新聞報道としては無意義であるばかりでなく、右記事自体犯行使用前の記入に関するものでないこと明らかである。右新聞記事の如き、取材の根拠が明らかでなく、その意味内容も不明確で、本件犯行に関する報道としても極めて不正確なものである。このような一片の新聞記事を取り上げて、松井名刺には被告人の自白と全く相違する文字の記載があったかの如くまことしやかに事実を主張し、確定裁判が適式な法律手続によって採用した証拠を否定し再審の理由とすることは許さない。

第四、被告人の自白の矛盾に関するもの、

所論は被告人の自白供述の中には幾多の矛盾がありその虚偽架空であることが新たに証明されたと主張する。すなわち、

(一)  被告人の自白によれば、帝銀椎名町支店の犯行に使用したスポイトは銀座の某露 店から取り寄せたガラス珠付スポイト(証第一七四号)であるとされているが、その長さは十二・八糎である。ところが同自白による右スポイトを入れたケース(証第六五号)のニッケル鍍金の粉入れケースは、その長さが十糎しかない。これは矛盾である。

(二)  控訴審第十一回公判における渡辺俊雄の証言によれば、安田銀行荏原支店において、犯人は「消毒班長のバーカーがやかましい」と言明したことになっているが、被告人の第四九回検事聴取書には、被告人は「ハーバートとか、バークレーとか言った様な気がする」とあり、

(三)  また、戸谷桂蔵の昭和二十三年二月四日付検事聴取書には、三菱銀行中井支店において、犯人は、「バーカーボーカー」とか言う中尉が消毒にくる、と言ったとなっているのに、被告人の第五二回検事聴取書には瞹昧にも「はかばか忘れましたが、そのような頭文字の進駐軍の中尉の名を出した、」とある。

(四)  また、吉田武次郎の昭和二十三年一月二十六日の検事聴取書には、帝銀椎名町支店において、犯人は進駐軍のホイットネットとか言う中尉がジープで、ここへ消毒にくることになっている、と言った、とされているのに、被告人の第三九回、第六三回聴取書中この重要な発言について何等の供述がない。

(五)  また、昭和二十三年九月二十五日被告人の第三九回聴取書には、被告人は帝銀椎名町支店において、「咽がえがらっぽくなったでせう、水を上って下さい、」と言ったとなっているのに、証人阿久沢芳子の昭和二十三年一月二十七日付検事聴取書には「その男はうがいをしてもよい、」と言った旨の記載はあるが犯人が水を飲めと指示した旨の記載はない。

(六)  また、村田正子の昭和二十三年一月二十七日付検事聴取書には、帝銀椎名町支店において犯人は時間を計るのに、自分の時計を見たとなっているのに、被告人の第三九回検事聴取書には銀行の時計を見たとなっている。

(七)  また、被告人の検事聴取書によると、帝銀椎名町支店における犯行の日、被告人は午後三時十分前頃池袋駅のホームに降りて、銀行に行く途中、伝染病に罹った人の名前と門札を見て行かうと思い、手前の辻を横に入り、偶然ジープが止っているのを見て、側へ行き、そこの表札を見て、番地と名前を覚え、丁度銀行へ入る瞬間自分の横をすり抜けて行くジープがあったので、「今ジープの音がしたでせう。私はあれできたのです」と言って前にジープの停っていたところで見てきた家の番地と名前を言った、となっているが、先ず原審証人英速雄、同岡本次郎らの証言によれば、同人らはアーレン軍属のジープで相田小太郎方に赴き、午後二時半頃より約十分間位同家にいたが、三時十分前頃豊島区役所に帰っている事実が認められ、被告人の自供にある被告人がジープの停っているのを見たという頃には既に相田方には居なかったことが明らかである。また同様に、右証人らのジープが、被告人が銀行に入る直前に、被告人とすれ違うということは時間的にあり得ない。また原審証人相田きみよおよび前記英、岡本両証人らの各証言を綜合すると、相田方に発生したと見られたのは疑似発疹チブスであって、被告人の自供にあるような赤痢ではなく、また、相田方にはその玄関より北方に二十米、南方に十五米、それぞれ行ったところに、立入禁止の紙を挾んだ繩が張られており、それをくぐらないと同家の玄関へは行けないようになっていたことが明らかである。同家の表札を見たという被告人の自白が真実なら、立入禁止の繩をくぐって中に入った被告人は、当然そこにいたアーレン軍属らによって注視を受け、その直後発生した本件犯行に関連あるものとして指摘された筈である。

(八)  また、被告人の検事聴取書によれば、被告人は昭和二十三年一月十七日午前中家族の者が留守中に、帝銀椎名町支店における犯行に使用した青酸加里溶液製造の準備をなし、その前後には外出したという供述は全くないのに、原審が有罪認定の証拠として併記している証人斉藤安司の証言によれば、右一月十七日の午前中に、銀座八丁目先の露店において山口二郎の名刺の印刷の注文を受けているのであって、被告人が右名刺の印刷を注文したというその検察官に対する供述と明白に矛盾する。

(九)  また、被告人の検察官に対する自白に基いて、原審は池袋駅より相田小太郎方を経て帝銀椎名町支店に至る経路を実地検証しているのであるが、それによれば、右池袋駅より北方或は西北方に進む道路をその方向に進行している。ところが、帝銀椎名町支店は池袋駅より西南方に位する。その西南方にあるところに行くのに北方或は西北方に進む道路を行くことは矛盾である。また、被告人は検察官に対し、池袋駅のホームに降りたのが午後三時十分前であり少し遅いと思い急いで歩いたと供述しながら、椎名町支店への道順より外れその西方にある相田小太郎方に遠廻りしていることも矛盾である。

以上の如く被告人の検察官に対する供述は、その供述自体に矛盾があり、また、原判決挙示の他の証拠と著しい喰い違いがあり、その虚構であることが明瞭であると主張する。

よって、審案するのに、先づ、所論帝銀事件の犯行に使用したスポイトおよびこれを入れて携帯した粉入ケースは犯行後何れも紛失してその現物が存在しないのであるが、被告人がその記憶に基いて検察官に供述したところにより、その現物を再現したとすれば、そのケースの長さよりスポイトの長さの方が大であることは所論が指摘するとおりであるが、被告人の供述によれば、スポイトのゴムの部分を折り曲げてケースの中に入れ、スポイトが中で動かないようにして行った、というのであって、その供述するところには、経験則に反する不条理は認められない。

また、安田銀行荏原支店、三菱銀行中井支店および帝銀椎名町支店等において被告人が言った進駐軍の将校の名前について、関係参考人の証言、或は検察官に対する陳述と被告人の検察官の供述とが必ずしも一致しないところのあること、また、帝銀椎名町支店において被告人が行員に毒物を呑ませるとき云った言葉や、被告人が時間を計るために見た時計などについても同様の不一致のあることは所論が主張するとおりである。しかしながら、被告人が右犯行の際述べた進駐軍将校の名前は、その時の思いつきであるから、どのような名前を言ったかについて、被告人が正確にこれを記憶していたとも思われないし、それを聞いた行員の方も突差に聞いた被告人の言葉をそのとおり正確に記憶していたとも考えられない。毒物を呑ませるとき被告人が言った言葉についても同様であるし、時計についても被告人が自分の時計を見たのか、そこにあった銀行の時計をみたのか、或は両方を見較べるようにしたものか、経験した被告人自身も、またこれを目撃していた行員達も、そのような細いところまで正確に記憶していたとは限らない。このような点に一致しないところがあっても必ずしもこれだけで被告人の供述が虚偽であるとは断定し得ない。

また、英速雄、岡本次郎らがアーレン軍属のジープで相田小太郎方に赴いた時刻、豊島区役所に帰った時刻、特に同人らが帰途帝銀椎名町支店の脇を通過した時刻が正確に何時何分であったかという点について、同証人らは、一時間とはずれてはいないと思う、と証言しているけれども、細い時刻は確定できないのである、したがって被告人が池袋駅のホームに降りた時刻が検察官に述べているとおりその記憶に基いて正直に述べているとしても、被告人が、相田方附近で進駐軍のジープが停っていたのを見、銀行に入ろうとしたとき、そのジープが脇を通り過ぎて行ったというその供述は、英、岡本両人の証言と必ずしも矛盾するものではない。その頃相田方に英、岡本らのジープが停っていた事実があり、それが帰途帝銀椎名町支店の脇を通過した事実が証明されたので、被告人がジープを見て銀行に行き、行員に「今ジープが通ったでせう、私はあれできたのです」と言ったその自供内容の真実性は動かし難いものとなったのである。弁護人はこの自白の内容を「奇妙な偶然」であるというけれども、真実経験したものでなければ供述することのできない真実性を有するものといわなければならない。弁護人は、相田小太郎方の伝染病も真犯人が仕立てたもので、犯行直前銀行附近に現われた進駐軍のジープに真犯人が乗っており、この真犯人が、吉田支店長代理に、「今ジープの音がしたでしせう、あれできた」という話をしたものである。検事、警察官はこの事実を知っていて、被告人の自白の中にこの真犯人の言葉を含ましめたものであるかの如き主張をするのであるが全く架空の臆測であって採るを得ない。

また、相田小太郎方附近に立入禁止の繩張りがあり、これをくぐらなければその玄関まで行けなかったということも原審の証拠調の結果否定し得ないところであるが、この事実は必ずしも被告人の検察官に対する供述の真実性を否定するものではない。

また、被告人の検察官に対する供述中、青酸加里を溶かす準備をしたのが、帝銀椎名町支店犯行の日の前の土曜日でなくて、三菱銀行中井支店犯行の日の前の土曜日のような気がする、というのが正確であれば、それは所論が指摘するとおり、被告人が山口二郎の名刺を注文するために、銀座八丁目先の印刷業斉藤安司のところに赴いた日に相当するのであるが、仮に、それがいづれも同じ日の午前中になされたとしても時間的に必ずしも相容れないものではない。

また、相田小太郎が池袋駅より帝銀椎名町支店への順路になく遠廻りのところにあることも被告人の自白の真実性を否定するものではない。

弁護人らは原判決が有罪認定の証拠として挙示する各証拠の内容を分析して、被告人の検察官に対する供述は、それ自体において矛盾があり、他の証拠と照合して、不一致食い違いがあるとして被告人の自供の真実性を否定する論拠とするのであるが、既に述べたとおり、その間に多少の矛盾、不一致のあることは已むを得ないことである。寧ろ被告人の自供が時には客観的証拠に照合して不一致のまま、場合によっては辻褄の合わないまま、少しの作為も加えられずになされたことを示すもので、その真実性の評価を高めこそすれ、これを減殺するものではないというべきである。したがって原判決もそれをそのまま有罪認定の証拠として採用している訳である。所論は畢竟再審申請に名を藉りて原判決引用の証拠と証拠との間の不一致ないしその価値評価を云々してその不法を強調するに過ぎないもので、再審の理由とならないばかりでなく、叙上縷述したとおり、原判決の措置にも些の過誤は認められない。この点の所論はすべて採るを得ない。

第五、新聞の報道に関するもの、

所論は事件発生直後の各新聞の報道によっても被告人の自白が虚偽、架空であることが明かにされると主張する。すなわち、

昭和二十三年一月二十六日帝銀椎名町支店事件発生後、同年八月被告人が逮捕されるまでの間、捜査当局は、犯人を割り出すために、現実に発生し、また現実に存在した客観的事実、客観的状況、犯人の言動について詳細な証拠を収集したことは当時の新聞記事によって明瞭である。これらの証拠は、事件発生直後のものだけに客観性、正確性が担保保証されるものである。しかるに帝銀裁判は、これらの最も重要な証拠を検察官の手許に死蔵せしめ、ひたすら被告人の自白を真実なものとし、これに沿って被害者の供述を曲げたり、省いたり、取捨選択して客観的事実に反する平沢自白により有罪を認定した。すなわち、

(一)  チブスを赤痢に変えた。

右検察官の手許証拠によれば、被害者らは、犯人の言動について、「銀行の近くにチブスが発生したので、注射の代りにチブスの予防薬を飲め」と言った、とそれぞれ供述している。それを判決の証言では「チブス」を「赤痢に、」「注射代りの予防薬」を「赤痢の予防薬」に変更せられ、平沢自白に符合せしめているが、赤痢予防には注射も飲み薬もない。

(二)  共同井戸の抹殺、

真犯人は帝銀椎名町支店において相田方の名前と番地の外更に同家では「同じ共同井戸を使っているから」と言っている。然るに判決においては被害者も被告人の自白にも、この「共同井戸」を犯人の言葉から抹殺している。

(三)  井華鉱業下落合寮事件の無視

一月十九日の三菱中井支店事件より四日前、一月十五日井華鉱業下落合大谷義次方に「便所を消毒にきた」と言い何もせずに立去った男がきている。被告人平沢の自白中には、一月十九日前に右大谷方を訪れた事実はないが、右捜査資料により、真犯人は一月十五日大谷方に現われ、十九日三菱中井支店の犯行に及んだ事実を証明することができる。

(四)  真犯人は「渡辺方」の名前を言っていない。

安田銀行荏原支店事件において真犯人は「同区小山三丁目のマーケット裏に水害地から避難してきた母子が腸チブスになり、附近に集団チブスが続発した」と述べており、小山三丁目一二〇番地の渡辺忠吾方の名前を言っていない。判決の証人も飯田隆太郎(現場へきた警察官)以外すべて犯人の言葉に患者発生の家として渡辺忠吾の名前を聞いていない。ひとり被告人平沢自白のみがその所番地と名前を言ったことになっている。

(五)  落合信用組合事件の無視

三菱中井支店事件より前十二月二十日頃中井支店にも、また帝銀椎名町支店にも近い、豊島区上落合二ノ七一七落合信用組合上落合出張所附近に、その閉店後の午後三時半頃、帝銀事件の犯人と同一と認められる挙動不審の男が現われたが所長足立丑之助に見られて姿を消した事実がある。被告人平沢自白には右の事実に相当するものはないが、平沢が真犯人とすれば右事実についても自白があって然るべきところ、捜査も裁判も右事実を無視している。

以上検察官の手許にある客観的事実に符合する証拠により、被告人平沢の自白は虚偽、架空なものであることを証明することができる、と主張するのである。

よって勘案するのに、昭和二十三年一月二十六日帝銀椎名町事件発生後、同年八月被告人平沢が逮捕されるまでの間も、捜査当局が犯人を捜査するために被害者その他についてできる限りの捜査証拠の蒐集に努力してきたことは記録を通し疑いのないところである。所論は、かくして蒐集された客観的事実に符合する真実性のある証拠を無視して確定判決は、虚偽架空の被告人の自白に沿うよう、故意に証拠を曲げて被告人の有罪を認定したと主張するのである。しかしながら所論が事件直後収集された証拠というのは、すべて当時の新聞記事を根拠とするものである。犯人が「チブス」と言い、共同井戸のことを言ったということ、三菱銀行中井支店事件の四日前にも犯人は大谷義次方を訪れていること、安田銀行荏原支店におい犯人は患者発生の家として渡辺忠吾方の名前を言っていないこと、十二月二十日落合信用組合出張所附近に帝銀事件の犯人と酷似した挙動不審の男が現われた事実について、当時の新聞紙上にその報道がなされている事は否定できない。そしてそれらの事実は、或は被告人の自白の中に含まれていない事実であったり、またその自白の内容と一致しないもの、確定裁判が証拠とした証言とも一部相違するもののあること所論が指摘するとおりである。また新聞記事が真実を取材し、これを正確に表現報道するときそれが真実の報道として価値の高いものであることは多言を要しない。併し、それはあくまで新聞の報道であって、それをそのまま裁判における事実認定の証拠資料となし得ないことは言を俟たない。殊に裁判手続において適式な取調べがなされた証拠内容、証拠価値を、これらの新聞記事を根拠として否定することはできない。所論は叙上の新聞記事を根拠として、確定裁判が証拠として採用したものの外に、別の新証拠が検察官の手許にあるのに、故意にこれを無視して被告人の自白のみによって有罪を認定したかの如く主張するのであるが、それは単なる憶測に基くもので到底再審の理由として採用することはできない。

第六、聴取書および署名の偽造について、

所論は、被告人に対する昭和二十三年十月八日、九日両日にわたる第六〇回ないし第六二回の検事聴取書はすべて偽造である。出射検事は右両日小菅拘置所に出張して被告人を取り調べた事実がなく、右各聴取書は同検事により偽造されたものである。また、第三九回より第五九回までの被告人に対する高木検事の聴取書も、同検事が実際には被告人の取り調べもせず、被告人を真犯人とするために必要且有利な事実を恰も被告人の供述の如く立会の佐々木事務官をして筆記せしめ、これを被告人に読聞けもせず、その真否を確かめることもなく、その拇印を押させた偽造のものである。また、同聴取書における被疑者の署名も偽造であると主張するのである。

しかしながら、爾余の所論について詳細説示したところによっても明瞭な如く、所論検察官の被告人に対する聴取書が偽造されたものであるとか、その被疑者平沢貞通の署名も偽造であるとの主張は全くこれを肯認することはできない。

第七、被告人の身長について、

所論は、被告人平沢貞通の身長は、宮城刑務所長備栄彦の柳瀬存宛回答書に明らかな如く、五尺三寸六分六厘強であるところ、真犯人の身長は五尺二寸五分三厘強であると推断される証言があり、これは、被告人を無罪とすべき明確な証拠であると主張する。

なる程本件犯行の行われた荏原安田銀行支店、三菱銀行中井支店および帝銀椎名町支店における多数目撃証人の捜査官或は原審公判廷等における証言によれば、犯人の身長は五尺二、三寸という者が多く、五尺四寸と、高く見た者は少く、寧ろ五尺二寸位に低く見ている者さえあるのである。しかし、これら各証人の証言は全く目撃したときの感じを言っているのであって、二寸といっても四寸といってもそれは決して正確なものでないことは言うまでもない。だから同一の犯人を見て或る者は五尺二寸といい、或る者は五尺三寸か四寸とも言うのである。所論は確定記録の中からこれら各証人の証言を拾い出して、その平均を算出し、これによれば五尺二寸五分三厘強であって、被告人平沢貞通の実際の身長より低いから、これが真犯人であると主張するのであるが、それは格別新しい証拠ではない。これら各証言に言う、犯人の身長は勿論数字的には正確なものでないにしてもこれを綜合すれば犯人は被告人とは著しく体格身長を異にする別異の者でないことを首肯するに十分であって、原審は既にこれら各証言についても十分の検討を加えてこれを断罪の資料とし被告人を有罪と認定したものである。所論は畢竟原審の証拠評価を非難するに帰し、再審の理由とはならない。

第八、被告人の事件当時の資産状態について、

所論は、被告人の絵画は事件当時一点十五万円にて取引されたものもあり、一点一万円にて一時に二十点も買入れ申込もある、そのうち一点は昭和二十七年末頃には十万円にも値付けされたものもある。また、昭和二十三年春夏の候、平沢はその画会会員を募集し、最低一口千円、最高一万円にて、加入者もぼつぼつあり、被告人は本件犯行を敢行しなければならない程窮迫した資産状態にはなかったと主張するのであるが、被告人が既に述べたような病的虚言癖を有する上に虚栄心が強く、その家族の者に対しても信用がなく、絵画に対する精進にも欠け、その技能が落ちて後援者も減り、これによる収入が乏しいのを、その家人に偽装するためにも極度に金銭の入手に焦慮していた事実は原審における証拠取調べの結果明瞭なところであって、この点に関する確定判決の認定には些の非違も認め難い、所論は単に独自の観点に立って右確定判決の認定と異る事実を主張するに過ぎず、これをもって再審の理由とすることはできない。

第九、面通しについて、

所論は、本件捜査記録中にも、田中徳和、吉田武次郎、高梨鉄二郎、佐藤正夫、富士富栄、神津安子等、被告人平沢貞通が犯人とは同一視できない、と証言するものがあり、却って、鈴木利雄、武田操子、栗原博子等、犯人が張谷僴一郎と似ていると証言するものがある、と主張するのであるが、被告人が安田銀行荏原支店、三菱銀行中井支店および帝国銀行椎名町支店における強盗殺人等の犯行について有罪の認定を受けたのは、これら各銀行において犯行の際、直接犯人を目撃した多数の各証人が、犯人が被告人平沢貞道に似ていたと証言したことが、その有力な証拠となっていることは否めない。しかしながらこれら各証人の中に嘗てその犯人と面識のあった者は一人もなく、したがって、その犯人がどのような体格容貌、風格のものであったかについて証言するためには、犯行の際の極めて短い時間に各証人が経験した記憶を想起する外ないのであって、その認識のし方は各人各様である。その犯人が被告人平沢に似ているとするものが多いか少いかも、畢竟は程度の問題であって、似ているとするものが多いから、それだけで、これを絶対的な証拠とすることはできないが、同時に似ていないとするものがあったとしても、これをもって被告人の犯行を否定する絶対的の証拠、論拠とはなし得ないのである。確定判決はこれら大、小区々の証言を綜合検討し他の証拠と比照してこれを事実認定の資料としているのである。所論は一方的見解をもって確定判決の非を指摘するに過ぎず、到底再審の理由とすることはできない。

第十、事実認定の矛盾について、

所論は、本件殺人の手段についての原判決の認定は矛盾があり、これは当然再審の理由となるものであると主張する。すなわち、原判示第一の一の犯行(安田銀行荏原支店における強盗殺人未遂)に用いた水溶液の原料と、原判示第一の三(帝国銀行椎名町支店における強盗殺人、同未遂)のそれとは、同じ青酸加里であると認定されているのであるが、前の場合は後の場合より時期的に三ヶ月も早いのであるから、右毒物はそれだけ新鮮にして風化が少ない訳である。殊に、前の場合は、昭和二十二年十月上旬(五日と仮定)水溶液とし、これを同月十四日施用しているのであるから、この保存期間は九日であるのに対し、後の場合は、昭和二十三年一月中旬(十五日と仮定)水溶液として同月二十六日これを使用しているから、その保存期間は十一日である。このように新鮮にして保存期間も短いものは、鮮度の落ちた保存期間の長いものより変質変色等が少ないのが当然であるのに、本件においては、それとは逆に、前者は茶褐色を呈し、後者は無色または白濁の程度であったと認められる。この矛盾を解くためには、前者の犯行と後者の犯行とは同一の犯人によるものではないか、前者の毒物と後者の毒物とは同一の物でないとされなければならない。然るに原判決は、右の矛盾を解明することなく、漫然その両者を同一犯人の同一毒物を使用しての犯行と認定しているのは経験則に反し再審により当然破棄されなければならないと主張するのである。

しかしながら、所論が指摘するようなこともすべて確定記録の中に明瞭になっていることで、裁判所としては所論が問題とするような矛盾がないかどうかについて慎重検討を加えた結果、何ら経験則に反するような事実はないものと認めて被告人を有罪と認定したものであることは記録を精査すれば十分にこれを肯認し得る。すなわち、被告人が安田銀行荏原支店の犯行の時青酸加里溶液を入れた容器はオキシフルの瓶であったが、前に絵具か何かを解いて汚れていたのを十分に嗽かずに、これへ青酸加里を溶いたのでその溶液ははじめから茶褐色に濁っていたのである。ところが、帝銀椎名町支店の時はそのようなことがなく、青酸加里本来の白濁程度のものであったのである。所論が縷々主張するような矛盾は少しもないのであって、再審の理由は全くない。

また所論は帝銀椎名町支店事件の犯行に用いられた液体についての認定の誤りは再審の理由となると主張する。すなわち、

確定判決によれば帝銀椎名町支店の被害者行員が飲まされた青酸加里溶液は、一五・九瓦の青酸加里を八〇ccの水に溶かしたもので、その分量は一人当り五ccである。そして判決が挙げている生存被害者らの証言によれば、その薬は壜に入っていた時は白く濁っていたようだったが、注がれたら無色の液であり無臭で、味はウイスキーの強いのを飲むように感じ、すごく苦かったことが認められ、またこれを飲まされた後少くとも一分間以上、三分前後と推定される間、立ち、もしくは歩行していたと認められる状況にある。前記青酸加里溶液はこれを飲むとき無臭であり、これを飲んでなお二分以上意識を保ち歩行することが可能なりや否や、死を免れる可能性があるかどうか、若し科学的鑑定の結果これが否定される場合は犯行用毒液についての被告人平沢の自白は虚偽架空なものであることが論証されると主張するのである。

しかしながらこの点についての資料として弁護人より提出した岡野定輔の鑑定によれば半透明の白い結晶の状態にある青酸加里一五・九瓦を水道水八〇ccに溶解し、これをガラス壜に入れてコックの栓をした上十日間日陰に放置したもの約五ccの分量を飲んだ場合、対象者が意識を保つことの時間は不明であり、死を免れる可能性もあり、文献によれば致死量の二十乃至三十倍によっても死に至らなかった例があるとされている。なおこれを飲む時は青酸特有の苦扁桃臭があり、無臭ではないとされており、この点において、帝銀椎名町支店における生存被害者の証言の一部と相容れないところはあっても、これをもって直ちに、再審の理由とすべき新たな証拠とするには足りない。

また、所論は本件犯行に関する検察官の立証が不十分である。本件犯行はその犯情からみて、十数人の被害者に一斉に毒物を飲ませ、一、二分後に毒物の効力が発生することを要し、犯人は右毒物の性質、効用、その使用方法を知悉していなければならないところ、被告人に右智識ありしことについて検察官の立証が不十分である。と主張する。すなわち、

本件犯行に施用した毒物は青酸性毒物であることが明らかにされており、右青酸性毒物は通常飲用即時に窒息するというのが医学上一般の常識である。しかるに本件において十六人の被害者に一斉にこれを飲ませ、後少くとも一分以上の時間、毒物が作用しないことが絶対に必要である。したがって、本件においては右青酸性毒物も右犯行情況に添うような反応を起し得る毒物であり、そのように配剤されたことを立証されなければならないところ、本件においてはその立証が不十分である。というのである。

勿論青酸性毒物は飲用後間もなくその作用を生ずるものであるから、多数の被害者にこれを飲ませ、犯行の目的を達するためには、その多数の被害者に同時に飲ませることは必要であって、これをバラバラに飲ませたのでは、全員が飲み終らないうちに、先に飲んが者が苦痛を訴えはじめ、所期の目的を達し得ない訳である。そこで被告人は、全員に飲ませるために、第一薬を飲んだ後、これを中和するためと称して第二薬の水を飲ませ、第一薬と第二薬との間に一定の時間をおかなければならないから、第一薬も全員同時に飲めと言って時計を見ながらこれに一斉に飲む合図をしているのである。そして帝銀椎名町支店においてはその目的を達している。全員が同時に第一薬さえ飲めばそれで、犯行の目的を達するのであって、所論が指摘するように、第一薬が飲用後一、二分の間毒物が作用しないことが絶対に必要であるということはない。安田銀行荏原支店では量が過少のため被告人はその目的を達することができなかった程で、被告人も毒物の用法について的確な智識経験を有していなかったことは否定し得ないが、これをもって強盗殺人の目的を達し得る程度の智識はもっていたことは記録上十分に証明し得るのである。この点について検察官の立証が不十分であるとして、再審を請求する論旨は採るを得ない。

第十一、被告人以外の真犯人に関するもの、

所論は、張谷僴一郎の指紋は全部流れ指紋であるところ、昭和二十三年一月二十六日帝銀椎名町支店に残された犯人の指紋も全部流れ指紋であった。また、大村得三の鑑定の結果によれば安田(富士の誤り)銀行板橋支店で現金に換えた小切手の裏書にある「板橋三ノ三六六一」の文字は張谷僴一郎において書き得る文字であるとされた。また、真犯人は自家用の自動車を有する者でなければ、犯行直後の警戒網を巧にくぐり抜けることはできなかった筈であるところ、張谷僴一郎は当時自家用自動車を持っていた。更に右一月二十六日の犯人の顔は、鬚を奇麗に剃っていたところ、被告人は当時面疔の手術後漸く繃帯を解いた頃で、鋏で毛をつむ程度で、顔を奇麗に剃ってはいなかったと主張する。

しかしながら、記録によれば、帝銀椎名町支店事件においては、犯行直後犯人の指紋検出に努力したのであるが、その金庫内、台所流し脇の湯呑茶腕等から指紋が検出されたが、犯人の指紋と認め得るものは、これを発見し得なかったのである。所論の張谷僴一郎の指紋と同一の流れ指紋が犯行現場から発見されたことを証明する何らの資料もない。また、自家用車を有する張谷が真犯人であるとの所論も単なる憶測の域を出でず、小切手裏の筆跡が張谷のそれと似ているなど、右真犯人に関する主張は、既に昭和三十四年一月三十一日当裁判所のなした決定において詳細説示しているとおり、再審の理由として採用の余地のないものである。また犯人が顔を奇麗に剃っていたが、被告人平沢は鋏で切る程度であったとの主張も、再審の理由として採用に値するものではない。

第十二、文献、学者等の意見を新証拠とするものについて、

弁護人らがその再審請求補充申立書に編綴する文献の内容、学者等の意見が、本件再審の請求を維持するに足るいかなる新証拠であるか、これを詳かにし得ないが、弁護人らの意図するところは、畢竟、被告人の検察官に対する自白が拘禁性精神異状のもとにおける妄想的空想による虚構のものであるのに、これを有力な証拠として被告人を有罪とした原審裁判官は、いわゆる未開人的軽信に陥り宏量、健実、周密の態度の欠如から法の精神を誤解したものであり、これを是正するためには再審の方法以外にはないとし、これを裏付けようとするにある。すなわち、原審が、日本国憲法および応急措置法の法意を誤解し、刑事裁判処理に関する諸法規の根本精神と、これを実現するために必要な法技術的規定の運用を誤り、証拠の取捨選択、特に被告人の自白の証拠能力、その証拠評価について重大な誤謬を犯したのは、裁判官として必要な科学的反省と法的理解に欠け裁判の混乱をきたしたものであることを論証せんとするのである。しかしながら、弁護人らの右の如き主張は、下級裁判所の裁判に対する上訴の理由とはなし得ても、既に上告裁判所においてなされた確定裁判に対する再審の理由とはなし得ない。

第十三、野村証言に関するもの、

所論は、原判決が認定している被告人の本件犯行の動機および被告人が帝銀椎名町支店より現金、小切手総額十八万余円を強取した点について、正にこれを否定し被告人が無罪たることを証明すべき新たな証拠を発見したと主張する。すなわち、被告人の本件犯行の動機として、被告人は当時極度に金員の窮乏に陥つており、被告人が帝銀椎名町支店より現金、小切手総額十八万余円を強取した旨虚偽の自白をしなければ、当時被告人がその妻に渡した金五万四千円、東京銀行に林輝一名義で預金した八万円等につき、その金員の入手方法を辻妻を合わせて説明し得なかったのであるが、被告人は当時野村晴通に自作の絵画を売却し十九万円の金員を入手していた事実が次の証拠により明白となった。それは野村晴通の証言によれば、同人は昭和二十二年十月末頃被告人よりその自作の絵画十六点を合計十五万円にて買い受け即金にて右代金を支払い、また翌二十三年三、四月頃被告人の妻マサより被告人自作の絵画六点を四万円にて買い受け、即金にて右代金を支払った事実が明瞭である、と主張するのである。

よって当裁判所はこの点について特に事実の取調べをして次のとおり判断する。

一、まづ、野村晴通が最初に十六点という大量の絵を十五万円という大金を出して買い受けた動機について、同人は、藤原銀次郎の鞄持ちをしている間に優れた絵画、陶器などを見覚え古美術に興味を持つようになり、自分でも一流画家の作品を買い集めていたが、被告人平沢の絵を十五万円という大金を出して買うようになったのは、当時同人がよく出入りしていた銀座の喫茶店モナミに、被告人の娘静子が勤めており、同女が子供もある未亡人であることも知らなかったので、同女に結婚を申込み、即答は得られなかったが、自分の妻子を捨てても同女と結婚したいと思い、同女の歓心を買うため、偶々同女から父(被告人)が金が必要で、絵を買って貰い度い、というような依頼を受けたので、同女から被告人の宮園通りの住所の地図を書いて貰って教わり、昭和二十二年の十月末か十一月上旬頃被告人を右住所に訪れ、その場で十六点を一括して十五万円で買い受け、即金で右代金を支払った、というのである。

しかしながら、この点について証人平沢静子の証言によれば、同女が戦争未亡人で子供を養っていることは、モナミの支配人中村質郎はじめ店の者は皆知っていた筈で、また同女は野村晴通にも妻子のあることは知っており、同人から冗談にそんなことは言われたが真面目に結婚の申込を受けた事実はない。物資のない頃で野村に一度魚を買いに連れて行って貰い、魚を買って貰ったことがあるだけで、二人で膝を合わせて話し合ったこともなく、自分は出入口のレジスターの係をしていたが、野村がそこを通るときに時々そんな冗談を言っていたに過ぎない。真面目に受け取れる立場でもなく、そのような雰囲気もなかった。また、同女は野村から被告人の絵を一枚だけ三千円で買って貰ったことはあるが、野村に父平沢の絵を買って貰い度いという依頼をした事実もなく、そのため被告人平沢の住所を書いて教えてやった記憶もない。野村から魚を貰った時、一度その礼状を出したことはあるが、野村と文通した事実もなく、同人から父平沢の絵を大量に、しかも大金を出して買ったというようなことを聞いたこともない、というのであって、野村晴通が十五万円という大金を出して被告人の絵を買ったという、その動機の点について、証人平沢静子は野村証言をその重要な点において否定するのである。

尤もこの点について、証人中村質郎は或る程度野村晴通と平沢静子との恋愛関係を肯定する如き証言をしている。すなわち、静子は時々店を早びけし、その理由をきいたところ、野村と二人で茶を飲んだ、といい、二人の態度や様子から、互に愛し合っていたと思った、と証言するのであるが、同証言によっても、静子が未亡人で子供のあることは、モナミの店の者は皆知っており、野村もそれは知っていた筈だということであり、静子の証言を裏付けている。二人の関係の微妙な点について、多少は静子の証言を割引いて判断するにしても、静子がモナミを罷めた後、二人の間には全く音信がなく、同年十二月頃静子が既にモナミを罷めていることも知らずに、野村がモナミを尋ねていることは、野村証人自身が認めているところで、野村が静子の歓心を買うために当時十五万円という大金を出すにしては、二人の間は余りに疎遠に過ぎるといわなければならない。現に、静子自身、野村からそのような恩を着た話は、全然聞いていないのである。以上、野村が静子に結婚を求めその歓心を買うために、十五万円という大金を出して被告人平沢の絵を買ったという点は措信し得ないのである。

二、証人中村質郎の証言によると、野村晴通は当時北海道と東京を往復して、闇物資を扱っており、書画骨董も相当集めている話をしていた。中村も画が好きなので、一度野村の持っている絵を見せて呉れといったところ、北海道においてある、といって見せなかった。モナミの店に、被告人平沢の絵がかけてあり、静子も勤めていたので、野村に平沢の話をしてその絵を買ってやって呉れと依頼したというのである。ところが、この中村質郎も当時野村晴通から被告人の絵を大量に十五万円も出して買ったということを聞いていないのである。このようなところをみても、野村晴通が当時被告人から十五万円の絵を買ったという事実には疑惑がある。

三、また、証人風間(元平沢)マサおよび同平沢静子の証言によると、野村晴通が昭和二十三年八月頃既に被告人が本件容疑で逮捕された後、その留守宅を訪れて被告人の妻マサと娘静子のところから、被告人の画いた未完成のような、或は余り出来のよくないものを混えて、数点の絵を受け取り、金の持ち合せがないからといってその代金の支払いをなさず今日に至っている事実が認められる。尤も右の時期の点について証人マサの記憶は、昭和二十三年三、四月頃か、或は被告人平沢が逮捕された後であるか、明確でないが、その時は既に警察が被告人の絵を押収して行った後で、碌な絵が残っていなかったという記憶もあるようで、未完成のような出来のよくないものを混ぜて数点を渡した、という点と、野村が金の持ち合わせがないといって金を支払わずに持って行った点について、静子の証言と全く符合しており、静子の証言によるとその時期は、昭和二十三年八月頃被告人平沢が逮捕後で、当時静子は勤先の「丸福」を罷めて自宅にいた時であることが明瞭である。

それを野村晴通は、昭和二十三年八月被告人平沢が本件容疑で逮捕された後、その留守宅を訪れて、被告人の妻マサおよび娘静子のところから未完成のものなど数点被告人の絵を受け取り、今日に至るまでその代金の支払もしていないことを全く秘し、右の時期を同年三、四月頃にすり替えて、即金四万円を支払った旨証言しているものと認められたやすく措信するを得ない。

四、また、野村晴通が被告人平沢よりその自作の絵画を買い受けたという事実の真偽を確認するため、当裁判所はその点について被告人平沢貞通本人の質問をしたのであるが、その結果によれば、被告人平沢は昭和二十二年十、十一月頃、その宮園通りの自宅において、自作の絵画十五、六点を代金十五万円で売却した旨、野村晴通の証言にほぼ符合する供述をするのである。しかしその時の具体的状況について、野村晴通は、十六点の絵が全部丸い筒に入っており、被告人平沢がそれを出してきたので、これを全部一括して十五万円で買い受け、筒に入れて持ち帰った、と証言したので、当裁判所は特にこの点について被告人平沢を質問したところ、被告人はその時の状況につき、絵は全部画嚢に入れてあり、巻いて筒に入れておいたことはない。また、その時全部で四十枚程の絵があり、その中から野村が十五、六点を選び出し、これを持ち帰える時は、ハトロン紙に包んでやったと供述するので、当裁判所は、野村証言とくいちがうことを指摘したところ、被告人は、自分のところに紙筒はあったが、それは精々二、三枚しか入らないもので、参考品を入れておいた。野村に絵を筒に入れて渡したことはない。野村は他の人から絵を買った時のことを混同しているかも知れない、というのである。しかしながら、十五万円という大金を出して、テンペラという特殊の絵を買ったときのことであるから、他の場合と混同して記憶される虞れもないと考えられるし、それに野村証人は、その絵を買ったときの状況についてこのように大量な絵を買うときは、良いものも悪いものも、ひっくるめて全部でいくらという値をつけて買うやり方をするもので、良いものだけを選び出して一つ一つ値をつけて買うものではない、と言い、また絵を入れて持ち帰った筒についても、その長さ、太さについて一々具体的な指示を加えて証言し被告人の述べるところと全く異るのである。

野村晴通が被告人から十五万円の絵を買ったという野村証言は、本件再審事件に関する特殊記事として新聞雑誌等に大きく取り上げられ、その切抜き等が平沢を救う会の人達の手によって、拘禁中の被告人の手許に差し入れられ、それに前後して、当の野村晴通自身はじめ、多くの平沢を救う会の会員も被告人を訪問面接しこの点に触れて話合っていることも押収の書信表面接表によって明らかである。したがって、野村晴通が昭和二十二年十一月頃被告人平沢からその自作の絵十五、六点を代金十五万円で買い受けたという程度の前記野村証言に符合する供述を、拘禁中の被告人がなしても、それによって直ちに野村証言を真実性のあるものと断定することはできない。寧ろ、右新聞、雑誌等に掲載されなかった、売買の具体的状況について、しかもその極めて重要な事実関係について、野村晴通の証言と被告人本人の供述がくいちがっていることは、架空の事実について供述を合わせているにすぎない証左ではないか。

若し、被告人平沢が昭和二十二年当時野村晴通より十五万円の売買代金を入手していたとすれば、被告人が捜査当時問題とされた十三万四千円の入手先の説明として当然右の事実を明らかにすべきであるのに、捜査当時はもとより、原審公判審理の過程を通じ、また、本件数次に及ぶ再審請求に及んでも、今日まで嘗て一度も右の事実を主張していないのである。弁護人はこの点について、被告人はコルサコフ氏病に基く健忘症のためその事実を今日まで忘れていたため、これを主張し得なかったとも主張するのであるが、当の被告人本人は、忘れていたというのではない。娘静子が子供のある未亡人の身で、当時野村晴通と恋愛関係にあったので、若し被告人が野村に絵を売った事実を主張すれば、当然野村と静子との関係が明るみに出て静子やその子供に迷惑がかかり、可哀想に思われたので、野村に絵を売った事実を今日まで主張しなかった、と釈明するのである。静子やその子供がどのような迷惑を蒙る、というのか。被告人が死刑という兇悪犯罪において無罪を立証し得る事柄であり、少くとも、それを主張するために明かにすべきことであれば、これによって、どんな犠牲を払っても、それは物の数ではない筈である。被告人が野村晴通に対し十五万円の絵を売却した事実があるならば、今日まで、これを主張しなかった理由を解明することができない。右の事実は架空虚偽のものと認めざるを得ない。

五、また、証人石橋進の証言によれば、石橋進は、昭和二十三年中、数回にわたって野村晴通に対し代金十数万円の紙函を売却したが、野村がどうしてもその代金を支払わないので、その担保として被告人平沢が画いたという「軽井沢大観」と題する画を受け取った事実が認められる。すなわち、野村は、平沢が画いた絵が、新宿の世界堂に売りに出してあるが、それを代金の代りに取ってくれぬかというので、承諾したところ、野村は「熱海の梅林」と「軽井沢大観」外一点、額に収めたものと、外に三、四点、巻いてハトロン紙に包んだ物を持ってきて、「熱海の梅林」は平沢が逮捕直前に画いた絵だと説明した。当時平沢の事件のことが判っていたから、平沢が逮捕された後である。それから、暫くして野村がきて、「軽井沢大観」は二十五万円で世界堂で売りに出していたものだから、その外のものは返えしてくれ、と言うので、石橋自身絵のことは何も判らないし、絵には興味もなかったが、外の物を返えしてくれ、というからには、矢張り相当の価値があるものと思い、代金額さえ貰えればよいと考えて、二十五万円という「軽井沢大観」一枚を残して、外は全部野村に返えしたところ、その後野村の所在が判らなくなり、代金は今日に至るまで一銭も支払いを受けていない。その後知人で絵に明るい人に見て貰い買って貰おうとしたが、その人はその絵を非常に軽蔑し、けがわらしいと言って自分の家に預っておくことも拒んだ、というのである。

その後昭和二十七年には石橋進自身も倒産し再起できないでいたところ、昭和三十八年一月偶々平沢を救う会が平沢の個展を開いたので、その機会に「軽井沢大観」を平沢を救う会で買取って貰い度いと考えたが、平沢を救う会としては、これを買取ることはできないが、平沢の絵がそんなに高価なものなら、その証明書を書いて貰い度い、と言うこととなり、石橋進は昭和三十八年四月二十七日付で平沢を救う会の森川哲郎に宛て前記「軽井沢大観」を代物弁済として取得したこと、そしてそれが二十五万円で世界堂が売りに出していた、と野村晴通の言ったことをそのまま書き添えた証明書を提出し、それが証第四号証として弁護人より当裁判所に提出されているのであるが、石橋進は、それを裁判等の資料に利用しないという条件でこれを作成したというのである。

野村晴通の証言によると、同人が被告人平沢から絵を買ったという、昭和二十二年暮頃には、十数万円の現金を、それ程必要な当てもなく常時持ち歩いていたように言うのであるが、石橋進の証言によれば、昭和二十三年夏頃は、石橋に対する十数万円の代金債務を一銭も支払い得ない程財政的に窮乏していたものと認められる。尤も年が一年違うといえばそれまでであるが、野村晴通は、昭和二十二年の十月末か十一月上旬と、翌二十三年三、四月に、被告人本人とそ妻マサから絵を買って、二十三年夏過ぎに、二、三点を残して二十一点全部を世界堂泉田賢一のところに売却してしまった、と証言しているのである。ところが前記石橋進の証言によると、野村晴通は「軽井沢大観」を含めて数点を世界堂に売りに出されていたものと称して石橋進のところへ持って行っているのである。二十三年夏二、三点を残して二十一点全部を世界堂に売却した、という野村証言は右の事実と矛盾する。また、野村晴通は石橋進に対し、「熱海の梅林」は平沢が逮捕直前に画いた絵だ、と説明していることによって明瞭な如く、野村は被告人平沢が本件容疑で逮捕後に、石橋のところへ被告人平沢の絵を持って行っていることが明瞭である。すなわち、野村晴通が昭和二十二年の暮から昭和二十三年春にかけて平沢の絵を入手して、二十三年の夏頃には殆んど全部を世界堂に売却したというその証言は虚偽で、野村は昭和二十三年夏被告人が逮捕された後、被告人の妻マサ等のところから被告人の絵「軽井沢大観」等を持ち出して石橋のところへ借財の代償に持って行き、「熱海の梅林」は被告人が逮捕直前に画いたものであるという説明をしたものと認め得るのである。

六、次に、野村晴通は、被告人平沢から十五万円で買受けた十六点と、被告人の妻マサから四万円で買い受けた六点の中二、三点を残し、二十一点を昭和二十三年八月頃、世界堂店主泉田賢一に二十万円で売却し、右代金は二、三日をおいて二回に受け取り事業資金の補填に使用したと証言するのである。

証人泉田賢一の証言によれば、同人は、被告人平沢の名前を、被告人が本件容疑で逮捕され、新聞などで報道されて後初めて知り、三人位の者から被告人平沢の絵を数点買った後、野村晴通からもこれを買い受けた事実がある。しかし被告人平沢が死刑の判決を言渡されてから、右平沢の絵は全く売れなくなり、その後火災でその絵は焼失してしまったが、その間に二、三点は売ったと記憶しているが、平沢の絵に関しては、その後完全にその記憶から遠ざかって、問題の野村晴通から絵を買った事実さえ忘れていた。最近に至って平沢を救う会の森川哲郎氏や、野村晴通らがきて、自分がその野村から二十一点を二十万円で買ったと言われ、正確な記憶がないところから、「ああそうでしたかねえ」と返事をしているうちに、どうも自分が本当に野村から平沢の絵を二十万円で買ったことにされてしまいそうになり、新聞や雑誌にも、自分がそれを肯定したように報道されてしまったが、事実自分としては二十万円という大金を出して買った事実はない。人一人の命を救うためと言われても、自分としてそれを承認することはできない。二十万円という大金を出した事実は絶対にない。昭和二十三年当時二十万円という大金を出していたら破産していた、というのである。

野村晴通が世界堂店主泉田賢一に対し、平沢自筆の絵画二十一点を二十万円で売却したという事実について、証人野村晴通の証言と証人泉田賢一の証言とが真向から食い違って正に水掛論の如くなっているのである。したがって当裁判所としては、その何れが真実であり、他が虚偽であるかを判断するために、更に慎重な検討を加えなければならないのである。

そこで先づ、世界堂店主泉田賢一が平沢を救う会の森川哲郎にあて、同人が被告人平沢の絵を氏名不詳の者から買い受けて、これを総額二十万円で売却した旨の証明書(証第三号証)を作成した事実は明らかである。ただ泉田賢一がこの証明書を作成するに至った経緯をみると、平沢を救う会においては、前記石橋進から「軽井沢大観」が、新宿世界堂の店頭に、二十五万円で売りに出されていたという証明書を書いて貰うと同時に、その世界堂の泉田賢一からもこれに添う証明書を書いて貰おうとしたのである。しかし泉田賢一の証言によれば、世界堂の店頭に「軽井沢大観」を二十五万円で売りに出した事実、殊にそれが野村晴通の委託で売りに出した事実はない、というのである。平沢を救う会のものが泉田に証明書を書いて貰うについて、右「軽井沢大観」二十五万円の真偽について質したかどうか判明しないが、泉田賢一の証明書は右の点には少しも触れないで、氏名不詳の者から平沢の絵を買い受けて総額二十万円で売却したという抽象的な証明に終ったのである。平沢を救う会としては、昭和二十三年当時平沢の絵が相当高価で取引されていたという一般的な証明でも、本件再審請求の資料として相当有利に利用し得ると考え、泉田に対しその点の証明を依頼し、また事実上昭和二十三年夏被告人平沢が本件容疑で逮捕されて以降その死刑の有罪判決が言渡されるまでは、市井の人の好奇心から、被告人平沢の絵が市場価値を得て、泉田賢一の経営する世界堂においても数点或は十数点が店頭に陳列された。そこで泉田賢一自身平沢を救う会の森川哲郎や柳寿美恵などの人命を尊ぶ運動とその努力に共鳴し敬意を抱き、自らもこれに協力する気持ちから、被告人平沢の絵が相当高価に市場取引されていた事実を証明しようとして、証第三号証の証明書を作成したものと認められる。

しかしながら、泉田賢一の経営する世界堂は、一般大衆向の絵画、額椽の製造販売を業とするもので、その絵画も全般的に低廉なものである。被告人平沢の絵もその死刑の有罪判決があってからは全く売れなくなり、その後火災で大部分焼失してしまい、それまでに数点を売却したが、一枚三千円程度であった、というのが泉田賢一の証言である。証第三号証の証明書は二十万円で売却した、と概括的ではあるが、その金額を表示しており、右証言からすれば極めて無責任なものであるが、畢竟泉田賢一の平沢を救う会の人達に対する敬意と共鳴が、迎合になって作り出されたものと認められるのである。右証明書の内容を仔細に検討すれば、「氏名不詳の人から買受け」の下に「約二十点」の四字を挿入し、「売価は二十万円位と思います」の下に括弧にて「昭和二十五年頃買受け品と共に約十二点」と挿入されているのであるが、泉田賢一は平沢を救う会の人達の要求によって、すべてこれらの挿入をしたもので、「昭和二十五年頃買受け品と共に約十二点」という意味は、昭和二十三年被告人が本件容疑で逮捕された直後とその後昭和二十五年頃にも平沢の絵を買ったが、それらを全部合わせて十二点位買った、ということを表わす趣旨で、右括弧の挿入をしたところ、更に救う会の人から約二十点買ったということをつけ加えて貰い度いと言われてその前段に「約二十点」の挿入をしたというのであって、言われるまま、要求されるままにこれらの挿入をしたとしても、前後の内容互に矛盾し、これを辻妻を合わせて説明することは到底不可能であって、それ全体として証明文書としての価値極めて低いものであることを否定し得ない。また「一枚十万円の値をつけたものもある」との附記も、救う会の人から、都内阿佐ヶ谷方面の喫茶店(白百合又は白樺のこと)に世界堂で十万円で販売した平沢の絵があった、と言われ、それを証明する趣旨で書いたのであるが、それも頼まれるままに書いたに過ぎず、一枚十万円で販売した事実もないというのである。

泉田賢一は無責任にも、平沢を救う会に宛て証第三号証の、氏名不詳の人から被告人平沢の絵を買い二十万円で販売した旨の証明書を作成したのであるが、野村晴通が泉田賢一に対し売却した平沢の絵の代金が二十万円であるというその金額の点の証言は、泉田賢一の右証明書にヒントを得て作り出されたものと考えられるのである。

すなわち、野村晴通および泉田賢一の両名は、昭和三十九年十一月四日、当裁判所よりそれぞれ証人として喚問されたのであるが、その前日、電話による問答を交わし、その内容を、泉田賢一が後日の証拠として録音に収めたのである。それは、二人が裁判所に出頭して平沢の絵の売買について証言するについて、その売買代金を、いくらであったかを述べるために、予め打ち合せをする、という形でなされた問答であるが、その中で、泉田は野村に対し、平沢の絵を自分(泉田)が買ってあなた(野村)に渡した金は、僅かな金額なのだが、それをいくら、と証言したらよいか、という質問をしたのに対し、野村は「あなた(泉田)が二十万円で買ったというあの証明書があるから、二十万円だ」と答えているのである。泉田賢一の証明書は平沢の絵を二十万円で販売したという趣旨のもので、二十万円で買ったというものではない。野村はこの証明書の「売り」を「買い」にすり替えて、泉田が自分から買った平沢の絵は二十万円であると強調しているのである。なおこの電話問答において、泉田は野村に対し、「二十万円と、口を合わせて証言するとして一体本当のところ、あなた(野村)はいくらでお売りになったのですか、」と尋ねられて、野村は、「実際は七万円でしたがね」と答えているのである。泉田賢一は勿論この七万円も否定するのであるが、この電話問答において野村晴通は少くとも二十万円という金額は虚偽であることを自ら告白しているのである。野村証言の虚偽であることはこの電話問答によって暴露されているのである。

七、平沢を救う会において森川哲郎らは、石橋進が被告人平沢の画いた絵を所持していることを聞知したのを契機として、石橋進、次で泉田賢一、野村晴通などその関係者を尋ね当て、石橋進および泉田賢一の両名より被告人の再審請求について有利な資料となし得ると思われる前記証第三号証、第四号証の証明書を入手すると同時に、野村晴通が果して泉田賢一に対し被告人の絵画二十一点を二十万円で売却した事実の真否についてもその究明に努力したのである。そしてこの点について証人森川哲郎の証言によれば、泉田賢一が右森川哲郎らに対しても、野村晴通より被告人の絵画二十一点を二十万円で買い受けた事実の相違なきことを言明し、昭和三十八年四月二十七日平沢を救う会に宛てた証明書(証第三号証)についても、自分から鈴木弁護人宛の報告書に書いているとおり「一枚一万円で販売したものもある」と記載したのは買値を売値と間違えたものであり、結局証明書に二十万円で販売したように記載したのは二十万円で買ったことの誤記であり、販売の方は一枚五万円から十万円で、点数は不明であって一部出火事件で焼失した、と補足的な訂正説明をしたと言うのである。右の点について泉田賢一は、森川哲郎らに対し右の如き言明をした事実はもとより、証第三号証の証明書について右のような訂正補足説明をした事実を全面的に強く否定し、全く水掛論に終っているのである。それというのも泉田賢一自身が森川哲郎の平沢を救う会の趣旨に共鳴し、それが行き過ぎ迎合的となって証第三号証を書くだけでなく、会の人達に対して平沢が白だ、その絵も相当高価で立派なものだと強調し、野村との絵の売買が具体的な問題になってからも、森川らとの面談において、その言葉尻に曖味さを残し、その言葉使い、言い廻しにも適切を欠き慎重さを失ったため、多分に誤解を招く受け取り方をされた虞れが少くなかったと思われる。また森川哲郎側にも矢張り被告人のために有利な証言、資料を獲得し度いと言う熱意から、相手の言葉の真意について、その受け取り方に正鵠を失した節のあったことも考えられるのである。証第三号証の証明書について、その「売り」を「買い」に訂正してみたところで、前記のような前後の脈絡を欠いた場当りの挿入訂正がされ、内容的にみれば全く支離滅裂になっているのである。泉田賢一もその軽卒無責任な言動が禍いして真実存在しない事実があったようにされ、それをそのまま肯定する時は裁判所において明らかな偽証をしなければならないはめに陥り、結果的には野村晴通を、いわばオトリ的な方法による前記電話問答によって、少くとも同人が泉田賢一に販売した平沢の絵の値段が総額二十万円であることは虚偽であることを告白させて、その真実を明らかにしようとした事実は肯認しなければならない。

八、以上の諸事実を綜合すると、昭和二十三年夏被告人が本件容疑で逮捕されてから、その死刑の判決が言渡される昭和二十五年までの間、一般の好奇心から、被告人平沢の絵が大衆の眼にとまり、泉田賢一の経営する世界堂の店頭にも比較的大衆向の絵としてそれが陳列され、野村晴通はモナミで平沢静子と知合い、被告人平沢の絵を一枚三千円で買ったことがあったところから被告人が逮捕されて、その絵が多少金になると思い被告人の留守家庭を訪れ、その妻マサ娘静子には、他に売却して相当の代価を支払う如く装って、未完成のものなどを混ぜ数点、平沢の絵を受け取り、石橋進にはその一枚「軽井沢大観」を、世界堂で二十五万円で売りに出していたものだと虚構の事実を申向けて十数万円の売買代金支払のため引渡し、他の一部を泉田賢一の世界堂に売却し、若干の金を入手したが、被告人平沢の家族には遂に一銭の金も支払わずに今日に至っている事実が認められる。

野村晴通が山本慶之助のところへ被告人平沢の絵を持って行って見せたのも、野村が被告人の留守宅から絵を持ち出した昭和二十三年夏以降と認められる。この点について証人山本慶之助はその時期を昭和二十二年の暮であると強調するのであるが、同証人は最近、野村晴通が被告人からその絵を十五万円で買ったという新聞記事を見て、野村から被告人平沢の絵を見せて貰った事実を想起したというのであるが、既に十五、六年前の記憶を想起するについて、その時期が昭和二十二年であるか、或は昭和二十三年であるか、或はその後なのであるか、これを明確にするキメ手の根拠が全く存在しない。ただ記憶を辿れば昭和二十二年だというだけで、具体的にどのように記憶を辿ってそれが昭和二十二年になるのか全く明確でないのである。同証言も野村晴通の証言の信憑性を肯定する資料とはなし難い

以上野村晴通は著しく事実を歪曲し虚構の事実を証言していることが明瞭であって、その証言をもって、被告人が無罪たることを証明すべき新たな証拠とはなし得ない。

以上各所論は、旧刑事訴訟法第四八五条所定のいずれの事由にも該当しないから、同法第五〇五条により、本件再審請求を棄却すべきものとして主文のとおり決定する。

(裁判長判事 兼平慶之助 判事 関谷六郎 判事補 小林宣雄)

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